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『戦国BASARA』シリーズの史実・仮説・逸話ネタを解説するブログ

戦国BASARAシリーズの元ネタになった史実・逸話のまとめ

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魔王・織田信長の、意外と優しい一面

戦国BASARAの初代悪役、織田信長
『戦国BASARA3』では一時期公式サイトを乗っ取るなど、公式的に悪役として描かれています。

そんな信長ですが、ニコニコ大百科の記事では「身内に優しい」、「柴田勝家に再起のチャンスを何度もあげている」などと言われています。




57 : ななしのよっしん :2012/07/09(月) 08:38:44 ID: QSql8rAA7i
2の家康への台詞は身内への甘さ(優しさ)の頂点だと思う
「竹千代、少しは成長したか」って何の敵意も無さそうな声で言いますもん
自軍武将に敵対台詞がないから、家康への対応が一番甘く見える
99 : ななしのよっしん :2014/03/04(火) 20:09:32 ID: kBMAlna3l
勝家に対してはどっかで再起するの期待してたと思うよ
完全に見限ったのがアニメルートで

102 : ななしのよっしん :2014/03/18(火) 13:12:16 ID: cukRwSO0vp
>>101
そう言われるとアニメルートは信長は見限ったというよりもうここにいること自体、勝家にとっては苦痛だからという理由で突き放した風にも見えるよね。実際はわからんけど。


作中ではイマイチ伝わってこないような気もしますが、勝家が手柄を立てた時は、それまで居ない者のように扱っていた勝家を(叱責のような形で)誉めています。
今までの待遇を考えれば、あれも信長なりの誉め方と言えるでしょう。
実際の信長も「手柄を立てれば過去の失態は許す」という面がありました。


その一方で陣中で勝家と仲違いをし、無断で帰還した事により大敗北の原因を作った羽柴秀吉に対して激怒したものの
程なくの信貴山城の戦いにおいて手柄をあげた事で許されて中国地方攻略担当に抜擢したり
かつてお気に入りのお伽衆の1人を殺害して逃亡した前田利家に関しては数年の月日を経て手柄を立てた事により、
帰参を許している事から一度しくじった者でも手柄を立てれば取り立てる程の寛容さはあった事が分かる。
(引用)http://www49.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/2185.html
”手取川の戦い”で、秀吉は柴田勝家と意見が合わなかった為、なんと勝手に帰ってしまいます!
要するに敵前逃亡。 信長から見れば主命を反故にしたという事です。
普通なら処断されてもおかしくないのですが、同時期に起こった合戦で手柄を立てた為、手取川の一件は許されました。

さらに秀吉の浮気に悩むねねに対して、労いの手紙を出したりしています。(この手紙で言った秀吉に対する悪態『禿げネズミ』が有名ですね)

粗暴なイメージのある
信長ですが、意外と身内には優しい一面もありました。
一方で、役に立たないと判断した家臣を容赦なく追放したりしていますが……。
基本的に自分に害の無い人間に対してはかなり優しい人だったようです。

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柴田勝家のあだ名『欠かれ柴田』は褒め言葉だった!?

作中の柴田勝家のあだ名『欠かれ柴田』。
柴田勝家ストーリーのモブキャラのセリフにもあります。


戦国BASARAの柴田勝家は、
「過去に謀反を起こして失敗し、以後は抜け殻のように無気力になり、与えられた命令に従うだけの覇気の無い人間に成り果てた」
……という風に描かれています。




作中の勝家は「人間として欠けた者」、「織田家への忠義が欠けた者」といった意味で『欠かれ柴田』と蔑まれている訳です。
下級の足軽にすらバカにされる可哀想な描写が目立ちます。
(一方、明智光秀は勝家に対しても普通に接しています。 何という人格者でしょう)



さて、この"欠かれ柴田"というあだ名ですが……。
実は歴史上の柴田勝家も同じあだ名が付けられていました。


欠かれではなく、『懸かれ』

実際の勝家のあだ名は『懸かれ柴田』。
欠かれではなく"懸かれ"です。

"懸かれ"とは「懸かる」の未然形。
ここで言うなら『攻め懸かる』の懸かるです。 先陣を切って活躍する鬼のような戦いぶりから付けられたあだ名です。

戦いでの先陣・先手の妙は柴田が一番である。

懸かれ柴田=柴田勝家合戦でも先鋒で活躍した。「懸かれ~!柴田!」って感じ。
(引用)
かかれ柴田は戦場における突進力では随一という意味のようです。
(引用)http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q13120489583
『懸かれ柴田』とは悪口でも何でもないんですね。 本来は戦で先陣を切って活躍する勝家を褒め称えたあだ名です。
読み方は同じでも、意味は天と地ほど違います。
歴史上の勝家に"欠かれ柴田"なんて言っちゃダメですよ!

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大谷吉継の「(三成は)私物を持っていない」発言……実際の石田三成も私物を持っていなかった!?

大谷吉続が三成の事を語った際、「私物らしい私物を見たことがない」と言っています。


「この男は驚くほど何も持っておらぬ。我でさえ、やつの私物らしい私物を見たことがない。金も名誉も部下もいらぬという。おまけに食べることにも興味が無い」
(ゲーム内の
大谷吉継セリフ)


これは実際の三成が非常に質素な生活を送っていたという逸話に由来するものと思われます。




天下人の家臣なら、さぞかし多くの金品を蓄えていそうなものです。
しかし実際の三成は全く違いました。

以下のサイトにこのような記述があります。
西軍を裏切った小早川、脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部の質素さに驚いた。
三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵遇され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯えているだろうと東軍は思っていた。
ところが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末な石。

ある東軍の軍医は記す「佐和山城には金銀が少しもない。三成はそれらを貯えてはいなかった」。(引用)http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic30.html

財宝はおろか、城の内装も質素だったそうです。
自分の居城なら少しくらい飾り付けたくなるのが人間というもの。
しかし三成はそのような事を全くしませんでした

三成は、「主君より授かった物は残さずすぐに使いきるべきだ。残したら盗人、遣い過ぎて困窮するようなら愚人だ」と言っていたと伝えられています。

この考えにより財宝や金を持たず、結果的に佐和山城も質素な内装になっていったのでしょう。

ゲーム内の三成は家康に対する復讐心が大きすぎる余り、他の欲が極端に少ないような描写がされていました。
実際の三成もかなり物欲の少ない人物だったのかもしれませんね。

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